第58回 研究会(2022.03.09)
今回のテーマは、「多様性をわがままと勘違いしてない!?」である。
昨今、様々なところで多様性が叫ばれる世の中であり、教育現場も例外ではない。その人なりの考え方や価値観があり、それを受け入れる、それってすごく大事だよ!!という空気がある。しかし、すべて多様性で片付けてよいのであろうか。そこには、ともすると子供の、家庭の単なるわがままが含まれているのではないか?多様性とわがままをそれぞれどのように捉えればよいのか?今回は、そんな議論である。
松井先生「保護者がいろいろ要求してくることが当たり前。子供にわがままと思ったことが少なく、むしろ保護者に対し思うことがある」
井上先生「モラハラ…というけれど、ある程度のモラルを教えるのが教師。普段は自分を主語に価値観を伝えている。ただ、子供の選択する力が弱くなっている」
馬淵先生(ご結婚、おめでとうございます🎊 旧姓亀ヶ谷先生)「世の中、思い通りにならないことが多い。自分の価値観と合わなくとも頑張らないといけない時がある。けれど、保護者から要望があると、あまり強く指導できないのが実際…」
村田先生「めっちゃ面白いテーマやな…と思った。多様性かわがままか、決めるのは誰なのだろう。教師目線から見てわがまま?それとも子供自身が自覚するわがまま?昔のような、こうしなさい!といった指導が通用しないとすると、新しい指導法を身に付ける必要があると思う」
氷見先生「モラルハザードの広がり。教師として果たさなくてはならない役割はあるけれど、児童自身がかつて当たり前とされた児童役割を果たさなくなっている。また日本の指導が、禁止によって多様性を阻止しようとするアメリカの指導に似てきている(ゼロトレランス方式)」
石垣先生「自分の世の中の捉え方は合っているのか?学校が敷くレールに乗れば安心な時代ではなくなっている…」
大島先生「価値が複数存在し、揺れている今、何を子供に伝えたらよいのか悩む。たとえば給食指導の場面を切り取ると、よくある指導としては、調理した方々への感謝を示すために完食しよう、であるが、それだけではない…」
宮越先生「子供から出るわがままは何かのシグナルである。また価値が多すぎて指導の一貫性がない」
所感でこれだけの意見が、各会員から出された。
以下、私の感想である。
私はこのテーマをいただき、悩んだ。そして話し合いを通し、途中でメモを取るのも忘れて悩んだ。
例えば、道徳の教材において、どちらにも正義がある場合、指導者である私自身が一方に決められない人間である。
今回のテーマ、多様性とわがまま。一見すれば、確かにわがまま、けれどそれもその人らしさであり多様性といえば多様性…受け入れるべきか…でもやはりそんな甘っちょろい考えでは……。といった感じで話し合いを聞いていた。
ただ、話し合いの中で、氷見先生のおっしゃられた、「不条理から学ぶことがある」が非常にスッと胸に落ちた。確かに、今はハードルを排除して、スムーズに何事もなく子供たちを育てようとしている部分が多い。けれど、それを続けると、それぞれの価値観にどう折り合いをつけて理解していけばよいのかを考える力を奪っていることにはならないだろうか。不条理なことをどう乗り越えるか、違いをどう乗り越えるかを考えることから学べることは多くある。教師は、ハードルを減らすばかりでなく、時には増やし、不条理を演出してやることも必要である。
多様性とわがままに対する答えは未だ出ない。難しい。けれども、多様な価値観、考え方をもった人々と触れ合う機会を大切にしながら、子供たちの更なる成長を見届けたいと改めて思った。
近藤 雄喜
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